1 黄帝内経 概要
2016 北京中医薬大学教授 ~ 講座記録 & 個人の備忘録+メモ ~
オリジナル言語 : 中国語
- 黄帝内経の観点
- 蔵象学説
- 三焦とは
- 中医学の事物の理解の仕方
- 西洋医学と中医学
- 黄帝内経が完成した年代(推定成書年)
- 黄帝内経の著者とは
- 「黄帝内経」著書名(タイトル)の意味するところ
- 黄帝内経の伝播
- まとめ
黄帝内経の観点
①人体と自然界は一つの整体
- 四季や気候変化に合わせて、衣・食( 因時养生)
- 同じ症状でも南方の医者と北方の処方(方子)は異なる→地理環境によった治療
- 自然界と人はくくられている(把人自然界捆绑在一起)
- 「人以天地之气生,四时之法成(素問)」
- 人を一つの小整体と考える(把人看成一个小整体)
☆西洋では不足したものを補う
☆中医では外から補充しない
☆西洋(西医):血が不足... 鉄分、カリウム、ナトリウムが不足 → 補充
☆中医:自分で生み出せるようにする
例:血虚(血が不足)の状態に、当帰補血湯(当帰と黄耆)を服用。当帰は血を、黄耆は気を生む。以气生血。
笑話:当帰と黄耆を煮て瓶に入れると血になるか → ならない。
口に入れると、人体の血を作る器官に作用
五臓(心肝脾肺腎)は小さな朝廷。体の問題はこの朝廷を通じて解決する。
②人体の世界は運動変化している(人体世界处于运动变化当中)
中医の診察で3日分の湯薬が処方される。3日後また診察し、その時の病状(変化)をみて処方を調整する。(病は運動変化の状態)弁証論治(辩证论治)
弁証論治の概念 動画
蔵象学説
西医:どの臓、どの細胞組織に問題があるかの診断
体の外(表)に現れた変化、症状、状態、現象などで体内(中)の臓腑の状態を知る
(蔵象:蔵は臓腑、象は表に現れた変化や症状(明代注家张介宾の解説))
これを黒箱理論(ブラックボックスセオリー)という人もいる。
<臓腑の見方>
中医:機能性の集合体(功能性的一个集合体)
五臓:心・肝・脾・肺・腎
六腑:胃・ 胆・小腸・大腸・三焦・膀胱
三焦とは
水液代謝の道路
素問:「三焦者,决渎之官,水道出焉」
難経:「有名而无形」
教授の考え:
中医学は千年以上前からあるが五臓六腑の形態の理論ははっきりとした表現や説明がない。それにもかかわらず医学は良い発展をしてきた。つまり、これは中医学が機能を重視し、実体(形)をあまり重視していないと説明できるのではないか。
周易:「形而下者谓之器、形而上者谓之道」
先人は抽象の理や規律をより重視。形而上は事物間の関係だが、形而下の器物を重視していない。
形而上の抽象、形而下の具体
中医学の事物の理解の仕方
「象思維」
風が吹けば木が揺れる。木は自分でコントロールはできない。風に任せるしかない。
このことを人体に関連して考えると、人体の手足が思うように動かない、ゆうことを聞かない時、中医学では風病かとみる。
脳血管に問題がある患者が手が思うように動かせない、また、パーキンソン病の患者のように手がずっと震えている。
中医学では、誰が手を震えさせているか、手を動きを阻止しているかというと、「風」がそうさせていると考える。これを「象思維」という。風勝則動(风胜则动)
水差し(急須)の蓋には穴がある。水を注ぐ時にその穴をふさぐと水が出ない。皆このような現象を体験したことがあると思う。中医学ではこの現象を人体と関連付けて考える。私たちの人体は大きな水差しと考えると、やはり水は出さなければならない。では、何に頼って出すのか。やはりその穴が必要で、人間の体では肺がその役割となる。
中医学で水肿(浮腫、むくみ)の治療には、「宣肺」という方法を取る。「宣肺」で小便不通(尿閉)や水肿の治療をする。この方法は提壶揭盖法と呼ばれる。これも「象思維」の運用である。
このように黄帝内経は、
古人の陰陽、五行、精気学説などの思惟を用い、
人体と自然界の緊密に結び付けた上で、
分析、探索、解決する独特な方法
問題の認識、問題の分析、問題の解決の独特の方法である。
西洋医学と中医学
明清以後西洋医学が中国に伝来。多くの中国人は西洋医学の基準に照らして中医学を判断する。西洋医学に基準に合うものは科学的、合わないものは非科学的というように。
一つの基準だけで物事を計るのは、いささか問題がある。世界、人体は複雑であり、一つの基準だけで量ることは不可能である。
私たちは私たちの中医学を堅持し、中国伝統文化であるこの思维方式で大千世界(世界)を知るべきではないか。
西洋医学も今それを認識し、将来の医学発展には更に以下を重視する方向である。
- 個体治療
- 心理要素
- 予防
- 環境要素
中医学は将来の医学発展趨勢の代表と言う人もいる。
現在は「精准医療」「精准治療」の事が話題になっているが、
精准治療とは個人の個体の情況に基づい真実を求め(実事求是)実際の治療を結びつけるものである。これは中医学の弁証論治と同じではないだろうか。
黄帝内経が完成した年代(推定成書年)
黄帝内経は「素問」81編 「霊枢」81編 合計162編(篇)という構成。論文集の性質。
黄帝内経のできた年代は、以下のように学界でも様々な意見がある。
では一体いつなのか。まず、2つの明確にすべき点がある。
① 何を以って「成書(書物になった)年代」とするのか
散在しているものが編纂され、一冊の本として形成されたときを成書年とする。
(黄帝内経内の学術思想が、以前の時代にあったからと言って、それを黄帝内経の成書の時代とすることはできない)
②文献上に「黄帝内経」の名前が登場するのはいつか
本の存在があれば、本の著書名(タイトル)がある。
「黄帝内経」の書籍名が登場した最も古い文献を知ると、その時代には「黄帝内経」が存在していたと言える。
上記の①②を基に考える。
著書名がする登場する最古の文献
「黄帝内経」の名が見られる現存の最古の文献は、班固の「漢書・芸文志」である。「漢書・芸文志」は劉向・劉歆の「七略」からの引用だが「七略」は失われ存在していない。
つまり「黄帝内経」は西漢末、遅くとも紀元前26年には存在した。
それ以前の著名な文献
「呂氏春秋」「韓非子」「春秋繁露」には「黄帝内経」の記載はない。つまり、この時代にはまだ「黄帝内経」がないと説明できるだろう。
特に、「呂氏春秋」は諸子百家の取りまとめであり、著者が自身の著物を素晴らしいものと見なしていた。内容に間違いを見つけたものには千金の褒美を与えるとまで言ったほど良い出来だった。(一字千金の語源)。その「呂氏春秋」に「黄帝内経」の記載がないということは、やはり「呂氏春秋」が書かれた頃には「黄帝内経」はなかったと言えるだろう。
司馬遷「史記」をみてみる。司馬遷は漢の武帝の史官だった。官辺筋の著作には何千年の歴史が記載される。また史記には、多くの医書の記載があり、「扁鵲倉公列伝」の記載もある。後世の医家の為の伝記があり、また大量の医書の記載があるにもかかわらず、「黄帝内経」の記載はみられない。これは「史記」書かれた頃には「黄帝内経」を見た人がいなかったと言えるだろう。
司馬遷は紀元前99年に入獄したと言われ、「黄帝内経」の成書年は紀元前99年以前の可能性はない。
よって「黄帝内経」は、紀元前99年から紀元前26年の間に編纂が成功したと言える。
前に述べたように、黄帝内経は162編(篇)から成り、それぞれの編が出来た時代は、成書の年代(書物になった年代)とは異なる。あるものは早い時代に書かれ、あるものはあとに書かれた。
黄帝内経の著者とは
誰が著者なのか?
一人の人物が書いたのではない。ある長い期間の医学論文を集めて、整理して、編纂してできたものである。
「黄帝」が著者と言うわけではなく、「黄帝」の名義を借りたと言える。
「淮南子 Huái nán zǐ」に下記の記載がある。
世人多尊古而贱今,所以凡为道者,必托之于神农 黄帝而后能入说
(世の中の人々は古代を崇拝、現代を軽視する。思想家などは自身の言動を神農や黄帝の名を借りて(根拠にして)行う。)
当時このような風潮があったと言える。
「黄帝内経」著書名(タイトル)の意味するところ
"内経"とは
黄帝は托名である。では内経は何か。
「漢書・芸文志」に医経七家の記載がある。
この7つで現在残っているのは黄帝内経のみである。
「内経」の解釈には学界でも色々意見がある。例えば、「内」「外」には特に意味がなく、「上」「下」巻のようにの単なる順番である。または、「内経」は理論、「外経」は治療技術という意見もある。しかし黄帝外経は残っておらず、現在確かめる方法がない。
"素問"とは
黄帝内経は「素問」と「霊枢」から成る。
宋代の林億は医書の校勘を行った。林億は「乾凿度」の下記を挙げている。
有形者生于无形、有太易,有太初,有太始,有太素
太易者,未见气也。太初者,气之始也。太始者,形之始也。太素者,质之始也。
以下のように解釈できる。「素」は”本質”や”根本”を表し、素問の名前の含意はこれである。生命の本質とは、人体が成長し老いるまでに、なぜ病にかかるのか、どのように治療するのかという点であり、「素問」にはこの本質に対しての問いが書かれている。
”霊枢”とは
「霊枢」はそもそも別「九巻」と言う名前だった。東漢の張仲景は「傷寒雑病論」を著した。中医学の経典である。「傷寒雑病論」の執筆には、「素問」「九巻」「八十一難」等を参考したという句がある。「九巻」とは現在の「霊枢」である。
参考:民间神奇的秘方验方偏方传奇 ---正本:《伤寒论》原序中“撰用《素问》、《九卷》……”等内容不是张仲景所写
黄帝内経は18巻である。「素問」の九巻を除くと残りは九巻である。これが名前となり「九巻」と呼ばれていた。
「霊枢」との名前は、唐代の著名な医者 王冰がつけた。王冰は「素問」全体に対して補注をした人物。王冰が素問を見たとき、 非常に内容構成が乱れていた(凌乱不堪)。各篇の順番や、各篇のタイトルや内容も一致しない状態だった。
王冰は12年の時間をかけて、また王冰の師匠張公の秘蔵本を取得し、黄帝内経に対し、改めて編成、整理、補注(编次,整理,注释)を行った。これが私たちが現在見ている素問である。王冰の黄帝内経に対する貢献は大きい。
王冰が素問を編集するときに引用したのは「九巻」や「針経」であった。彼は「九巻」や「針経」を「霊枢」と呼んだ。
「霊」とは霊験/灵验(辞書:薬の効き目があること)の意味で、枢は关键(かなめ、キーポイント)の意味である。
黄帝内経の伝播
黄帝内経が流伝は平坦なものではなかった。(坎坷)
素問
西漢末の成書後、唐代の王冰の時代には内容や構成が乱れていた。王冰が整理し、文字(文章)がなくなっていた部分に対しても補充した。(丢字的部分,他补入了)
王冰の学問に対する研究は謹厳であり、「補充された文字は全て朱で記す(所补之字,皆律朱书之)」と記載されていた。よって原文(墨)と王冰が補填した部分(朱)は明白だった。
しかし北宋になり、国の校正医書局が素問の校正した時(伝わっていたもの?)には、墨と朱の違いがなくなっていた。
今伝わっている「素問」は、唐代の王冰の校正、そして北宋校正医書局の校正を経てたバージョンである。
素問は9巻であるが、王冰が見たときは8巻だった。王冰は師匠張公の秘蔵本を1巻にして足し9巻とした。それが「五運六気学説」である。現在の「運気学説」は王冰の師匠の秘蔵本である。黄帝内経の他の部分と「五運六気」の文字(文字構成?)に一体感がないという人もいるが、その理由がこれである。
霊枢
「素問」は歴史の中で整理、校正、校勘されたが、「霊枢」はされなかった。北宋の時代、校正医書局は医書の校正を計画し、「霊枢」も校正対象に挙がっていた。だが、理由は不明だが校正をされなった。
「霊枢」の流伝も平坦ではなかった。北宋になって高麗が書目を献上した。
(到北宋高丽国到中国来进献书目)
その中に「霊枢」が見られた。高麗は献上しに来たのではなく、多くの書籍を、他の書籍(「資治通鑑」)と交換のために持ってたという人もいる。
当時話し合いが行われ、「資治通鑑」を渡すか渡さないか、また渡すに値するかしないかなどが話し合われた。最終的には書籍の交換をした。
当時「霊枢」は存在し出版もされていた。しかし北宋~南宋の時代は戦争が各地に広がり(战火纷飞)、「霊枢」はまた途絶えてしまった。
南宋の史官、史崧は家のある古い秘蔵の本を使い音釈(音释)した。その古い秘蔵の本とはかつて高麗が献上した書籍の中にあった「霊枢」である。これが現代に伝わっている霊枢のバージョンである。
現在
現在、素問、霊枢とも良い状態であり、出版されている。どのバージョンが良いかと聞かれたら、人民衛生出版社のものが良く、我々は「梅花本」という愛称で呼んでいる。(表紙に梅の花が描かれている)
まとめ
黄帝内経は中国文化の宝物である。
また中医学の主要な経典でもある。(最も古く、最も全面的、最も体系的)
そして中医学の理論体系を表したものである。
よって、中医学がどこから発展したかという問いには、黄帝内経から発展したと言うことができる。それゆえ、黄帝内経は医家之本、医家之宗と呼ばれる。
黄帝内経は古人の思考や考えを表し、また反映したものである故、中国伝統文化を表したものだと言える。中国伝統文化を勉強したいなら、黄帝内経を勉強し理解すべきである。